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IT小僧の部屋

シリーズ~プログラマーに歴史あり 番外編 24時間プログラム付けの毎日 テーブルの壁を突破した日 答えは銭湯にあり

お久しぶりです。

IT小僧です。

「シリーズ~プログラマーに歴史あり」では、自分のコンピュータにかかわる仕事や会社などについて話してきました。

今回は、番外編として「テーブルの話です」

現在のエンジニアを取ります環境では信じられないと思いますが
「お時間があったらお付き合いください」

全商コンピュータサービス

自分は、大学は完全な文系しかも仏教文化を勉強してきました。

1984年当時、バブル景気の前で就職は困難を極めました。
と言っても4年生の春からポチポチとはじめるという いまでは信じられないほどのスロースタート

仏教文化という特殊な部門で勉強してきたため 教授からは、大学院にススメとも言われましたが、前年、父親を亡くし経済的に不可能ということで就職を目指しました。

と言って「仏教文化なんて 会社に何の役に立たない学問」なんか就職に有利ではありません。
「新宿のバーでバイト」していたぐらいの経験があるぐらいで「自分に何ができるのか?」なんてわかるわけもないのです。

大学の就職課に相談しても「自分でみつけてこい」なんて言われるし、新卒就職雑誌で応募するぐらいしかありませんでした。

何通か応募したところ 9月にある会社から手紙が届きました。

「全商コンピュータサービス」

??? こんなところ応募したっけか?

コンピューターに興味があったわけでもなく 適当に応募したわけです。

10月1日に面接があるので受けませんか?

当時の就職活動解禁日は、10月1日 交通費も出るしというわけで ノコノコと出かけていきました。

東京工業品取引所

株式会社全商コンピュータサービスは、東京工業品取引所(TOCOM)のビルの地下1F、1F,2Fに入っていました。
小伝馬町駅と人形町駅(東京メトロ(営団地下鉄) 日比谷線)の中間にありました。

全商コンピュータサービスは、商品先物取引のカネツ商事の子会社で東京工業品取引所のシステムを運営していました。

商品先物取引事態をよく知らなかったのですが、新人の時に連れて行かれたカネツ商事のオフィスの中で電話機だけが置かれたデスクがずらっと並んでいた部屋を見て

「ちょっと ヤバい会社かも」
と思いました。

実質、当時の商品先物取引会社は、ブラックに近いところもあって、相場師と呼ばれる人達、破産して自殺する人など社会問題にもなりました。

ある社員お人から

「出世するために何人殺した・・・」

なんてやばい話も聞いています。

この当時、金の先物取引は、日本の取引所がトップであったという話も聞きました。

24時間プログラム

新人の頃は、とにかく COBOLを覚えるのに必死でした。
マニュアルは、基本英語、先輩方の中に一人というタイセイで客先に出稿と言う日々ですた。

このあたりは、以前書いた記事があるのでお時間があったら読んでみてください。

シリーズ~プログラマーに歴史あり 第1話 キーボードを触ったことのないプログラマー誕生 

【プログラマー物語】第1話 初めて触ったコンピュータは、バロース(Burroughs) B6900

新人時代、COBOLを習得するためにとてえも悩んだことがありました。

COBOLのプログラムを夢の中でも書いていた

先輩方に 「給与分ぐらい仕事して」というパワハラのような状況で ここから這い上がるには、COBOLを覚えて いっぱしのプログラムを書けるようになるしかないと決心

その日から 会社で捨ててあったプログラム(ストックフォーム)を持ち帰り(今はダメですよ)家で解析をする毎日でした。
日曜日(当時 土曜日は出勤:半日)は、朝から プログラムを解析する毎日
書店でCOBOL入門を購入し 見比べる

「COBOLのプログラムを夢の中でも書いていた」
というぐらい 通勤電車、スーパーで買い物、銭湯で風呂につかっていた時もCOBOLのコードを思いうけべていました。

もがき苦しんでいたと言っていいでしょう。

答えはひとつではない

ある日、会社の上司が悩んでいる自分に

「プログラムの答えはひとつではない」
「何千以上のやり方があるんで 固定観念を捨てなさい」

当時この言葉に救われました。

暗記的な勉強をしていましたが、「そんなものは役に立たない」ということに気がついたのです。

プログラムは、ある目的をもって作られますが、最終課題がOKならば それは正義だったのです。

そこで、就航先の先輩のプログラムを持ち帰り、それぞれのプログラムを見比べたところ 個性があることに気がついたのです。

そのあたりから 急激にプログラムが書けるようになり、仕事を任されるようになってきました。

テーブルの壁

COBOLには、テーブル(TABLE)というデータ構造があります。

COBOLの仕事を始めたころ このテーブル(TABLE)という概念がなかなか理解できませんでした。
※なにせ プログラムどころか コンピュータなど見たことがない時代でした。

2次元、3次元 先輩方のプログラムを見て ここが理解できなくてかなり悩みました。

コードが読めても 概念を理解しなければ プログラムが書けないのです。

答えは、銭湯にあったのです。

答えは銭湯にあった

1980年代 池袋の安アパートに住んでいました。
風呂なし、8畳1間、トイレ付き 月に6万円ほどでした。

お風呂は、銭湯に通っていました。
※料金は、210円だったと記憶しています。

当時、風呂のないアパートは多く、銭湯も賑わっていたのです。
ある日曜日の夕方、1番風呂を目指してオープンすyる前から銭湯に並んでいました。

夜のお仕事をする人、背中に観音様や鯉を背負った人 とか いろいろな人が多かったのですが、裸になれば 仕事とか年齢とか関係ない平和な世界がそこにあったのです。

前章でも書いたように24時間 COBOLを考えていたとき のんびり 風呂につかっていたら

ふと 青いタイルが目に入りました。

横と縦色違いになっているタイルを見ていたら

「あっ これだ・・・」

悩んでいたテーブルの概念が一気に快傑されたのです。
1次元、2次元,3次元,4次元 頭の中でロジックが形成されるのを感じました。

その日から、悩んでいた壁のひとつ「テーブル」が理解できたのです。

もう 先輩の書いたプログラムなど 簡単に理解できるようになりました。

「答えは銭湯にあった」

そこからは、真綿に水がしみこむように COBOLが自由自在に読み書きできるようになりました。

1年後には、数十万行のオンラインプログラムを任された有り、既存のプログラムをメンテしたり、動作中のシステムのバグをみつけたりと COBOLで会話できるように? なっていったのです。

その後

COBOLに飽きて3年後にキヤノンの下請けソフトウェアハウスでアセンブラーやC言語でチップの開発やネットワークの仕事(インターネットの前の時代)、多くの会社と多くのプロジェクトを経験してきました。

BASICやCOBOLからはじまった プログラム人生も終盤 今は、社内SEとして仕事をする傍ら 新しい業務システムの開発なども行っています。

言語、環境も劇的に変わってきた業界の中で生き残れたのは奇跡と言っていいでしょう。

では、また 昭和のプログラマーについて「何か書きます」のでそのときは読んでやってください。

 

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