今年も「シリーズ~プログラマーに歴史あり」よろしくお願いいたします。
コンピュータどころかキーボードさえ触ったことのない文系出身者が、いきなりバロースという大型汎用機を使って仕事をするようになりました。
そこから、3ヶ月ほど経過、同期の2人が同じ職場に派遣されてきました。
今回のシリーズ~プログラマーに歴史ありは、
PC-9800を貸してくれた友人のお陰で玉ひででごちそうになった シリーズ~プログラマーに歴史あり 第四話
と題して、少しは、戦力になってきた新人プログラマーの話です。
最後まで読んでいただけたら幸いです。
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目次
3ヶ月
他の同期の人よりひと月だけ早くオンワード樫山に出向して働いていたIT小僧
3ヶ月も経過すると少しずつ仕事を任されるようになってきました。
プログラムは、それこそ夢に出てくるようになるまで徹底的に勉強しました。
銭湯のタイルを見てTABLEのヒントを掴んだり、電車に乗りながら効率的なロジックを考えたりしながら、先輩しかいないところで戦っていました。
当時の会社は、土曜日も出社日でした。
オンワード樫山も同じ用に土曜日も仕事で原則一日仕事でしたが、交代で自社に戻ることがありました。
土曜日の半日と言っても会社ではやることもなく、交通費の精算が終われば、あとは暇
同期とは、あまり会っていないこともあって
「みえない壁」を感じていて、どちらかというと、先輩方と一緒にいた記憶があります。
そんなこともあって、会社では先輩方にいろいとと可愛がられていたと記憶しています。
同期がやってきた
3ヶ月も経過するころ、同期、2人出向してきました。
同期といっても、入社式と研修旅行で会ったきりであまり話したことがありませんでした。
3ヶ月ともなれば、出向先の人ともある程度、話をすることもできるし、オペレータの人とは、いろいろと迷惑をかけた?のでかなり親しくなっていました。
先輩方と自分しかいない状況にさらに新人がやってきたということで自分に対するプレッシャーは、かなり軽減されてきました。
はっきり言って 助かった
と思ったものです。
こうして、先輩方3人と新人3人が一緒に仕事をしていたのですが、彼らが来たのは、先輩の一人が、別の会社に移動するための布石だったようです。
先輩の一人は、やがて、同じくアパレル企業に移動となりました。
オンワード樫山で修行の1年、ついに自分が、別の会社に移動することになったのです。
カミンズディーゼル
次に仕事場は、カミンズディーゼルという会社でした。
しかも、一人きりで出向となったのです。
そこでの役割は、プログラム開発ではなく、すでに出来上がっている業務のマニュアル作り
会社としてみれば、どういう考えで一年足らずの若造に出向させたのかわかりかねますが、大型汎用機に囲まれた世界から、B1900というバロース社のスモールと呼ばれる小型汎用機を使うことになったのです。
カミンズディーゼルには、オペレーション担当の若い人が一人で担当していて、気さくで話しやすい人でした。
仕事は、日常のオペレーションなどを整理してマニュアルをつくるということでしたが、当時、パソコンどころかワープロもありません。
自社でもまともに使えるものがないので基本手書きです。
でもな。。。 IT小僧は、乱筆であまり人に見せられた字ではなかったので困っていたところ
オンワード樫山に出向していた一人が、 NEC PC-9800を持っていたので使わせてもらうことになりました。
そこから、毎週、彼が住んでいる会社の寮に日曜日通う日が続きました。
彼は、とてもいい人で友人でもありました。
ある意味、ライバルだったと思います。
体で覚えろ的なIT小僧と違って コンピュータにも詳しく理論的でした。
当時、コンピュータを自宅で持っている人は、ものすごく少なく、相談できる人もいなかったのですが、こころよく引き受けてくれました。
一週間でノートで書き溜めたことをPC-9800の一太郎というワープロソフトで入力
彼といろいろな話をしながら 文書を打ち込み印刷して翌週持ち込んで確認する。
せっかくの休みというのにパソコン貸してくれなんて、ずいぶん図々しい話だったと思いますが、自分にとっては、楽しい時間でした。
先輩方から聞いた話
寮には、先輩方も住んでいて、よくいろいろな話をしました。
そこで聞いたのは
「お前は、いち早く、出向してカネを会社に入れていたので上司からは高く評価されている」
「オンワード樫山のXXX(先輩)から話を聞いたけど よくやっている」
「おそらく 一人で出向させたのは、そのあたりを評価したんだろう」
ということでした。
先輩方に厳しくされたことを知っていたららしく「よく耐えた」とも言ってくれました。
正直言って
「いつか見返してやる」
としか思っていなかったわけで、耐えたとも思っていませんでした。
マニュアル
カミンズディーゼルは、仕事がしやすい環境で 担当者がいないときは、伝票を打って作業をしたり、一日、代理としてシステムの面倒をみたことも何度かありました。
そして3ヶ月経過 ついにマニュアルを完成させて、提出
カミンズディーゼルから離れました。
マニュアル作成から数カ月後
マニュアル作成が終わり、次の出向先に行っていたころ
会社の専務から連絡があり
「めしを食いに行こう」
と誘われました。
行った先は、「玉ひで」という人形町で有名な店でした。
当時の自分では、行けないような店でした。
そこで専務から聞かされたことによると
「カミンズディーゼルでは、コンピュータのマニュアル作成ははじめてのことだった」
「マニュアルは、カミンズディーゼル本社(米国)から、表彰を受けた」
「当然、関係企業のバロース、そして全商コンピュータにも感謝状のようなものが届いたとかなんとか。。。」
まぁ、会社としては、かなり大きなインパクトがあったらしいということでした。
その後
結局、昼飯だけだったのか 金一封をもらったのか 記憶が曖昧でしたが、会社での評価は、かなり高くなったわけで、それが、その後にかなりプレッシャーになったことも事実です。
さて今回の話は、ここまでですが、
会社の評価が上がって調子ぶっこいたIT小僧は、次の仕事で大失態をさらすことになった
というお話です。
では、また 来週あたり掲載します。
追記
PC-9800を快く貸してくれて、大切な日曜日を自分のために使ってくれた彼に大感謝です。
今、彼は、どうしているでしょうか?
もし、このブログをみつけたら連絡待っています。
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