この物語は、IT小僧が「駆け出しプログラマー」だったころのお話です
今回のお話は、分派 ちょっと意味深ですが、会社の方針が大きく変わるお話です。
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目次
前回までのお話
1984年 大学卒業 専攻は、仏教美術でした。
キーボードどころか コンピュータなど一度も触ったことのない男が、全商コンピュータサービスという企業に入社
入社前からオンワード樫山に出向いて 先輩に扱かれながら「いつか見返してやる」と決心、先輩のプログラムを徹底的に読んでプログラムを覚えるという日々が続きました。
入社から3ヶ月後、IT小僧の仕事をしていたオンワード樫山に2人の同期が、出向してきました。
先輩3人と新人1人 から 先輩3人と新人3人 という体制になり物語は続きます。
先輩3人と新人3人
先輩3人と新人3人という体制になって 自分の役割が大きく変わりました。
簡単に言うとパシリからの解放で先輩のアイスを買うことや昼休みの席とりの仕事はなくなり、あとから入ってきた
Uさん、 Mさんのシステムに関して面倒を見るという仕事となりました。
「テープにバックアップしてきて」
「帳票を印刷してきた」
という仕事は、2人に命令され、自分がバックアップするということになります。
たった、数ヶ月でしたが、実践の場に出ていたIT小僧と2人の差は大きいのを実感しました。
今とは違っている派遣体制
昭和のエンジニアは、9割近くが大型コンピューターの仕事をしていました。
登場したばかりのパソコンは、おもちゃレベルで特に日本語の取り扱いがひどく 事実上使い物になりません。
開発者のほとんどが、大型コンピューターの設置してある企業かメーカーのデータセンターで開発を行っていました。
全商コンピュータという会社は、自社で大型コンピューターを所有しているという恵まれた環境で多くの企業から給与計算などの事務作業の委託と「東京工業品取引所(TOCOM)」の運営を行っていました。
100名足らずの従業員でしたが、ソフトウェア会社としては、環境が揃っていました。
そのため、コンピューターメーカーのバロース社と繋がりが深く、バロース社のエンジニアの人をよく見かけました。
オンワード樫山に出向という形で計6人が働けたのもバロース社の影響が大きかったわけです。
もちろん、今のような派遣会社を通していなかったので中間マージンを搾取するなんて馬鹿げた仕組みもなく、メーカー、ソフトウェア会社、ユーザーが信頼関係で成り立っていたわけです。
そうでなけえば、自分のような まったく知識のない人材を出向という形で仕事ができるわけもないわけです。
余談ですが・・・
日本のソフトウェア産業が欧米に立ち遅れたのは、エンジニアに対する報酬を中間搾取する中抜き会社が横行したためです。更に言うと、エンジニアの給与が低すぎる。
安い給与で頭脳と精神をすり減らされる仕事など 誰が好き好んでやるわけがない。
この、中抜き構造で甘い汁を吸っているバカ企業を法律で取り締まり、エンジニアの給与を上げない限り、この国のIT、デジタル産業は、壊滅するでしょう。
いや、もうすでに 壊滅していて絶望と言っていいでしょう。
さて 話を戻します。
はじめての開発
パシリの仕事から開放された自分は、業務プログラムを書く仕事につきました。
最初は、帳票、中間ファイル作成 と数をこなし、少しずつ プログラマーっぽくなってきました。
当時の仕事は、今とは大違いです。
実際にプログラムができるまでの工程を見てみましょう。
- ユーザーより仕事依頼
- 仕様書作成、フローチャート、画面、帳票、帳票 などをテンプレートという定規を使って手書きで作成
- 詳細設計書を手書きで作成
- コーディングシートとよばれるプログラムを書く専用の用紙に鉛筆でプログラムを書く
- プログラムをデータに落とし込むパンチャーという人にコーディングシートを渡してデータ化する。
※多くのエンジニアは、コンピューターを使用できる時間が限られていたので自分で打ち込むことは難しかった。
IT小僧は、いつでもコンピューターを使える環境に恵まれていたため自分で端末に打ち込んでいました。 - プログラムを コンパイル ⇒ エラー修正 ⇒ コンパイル という作業を繰り返す。
- 完成した 実行ファイルを走らせて 試験
- 試験 ⇒ 確認 ⇒ 問題点修正試験 ⇒ 確認
- 試験に合格したら 本番環境で実行
- 結果を確認して 終了
という 今では、考えられない工程を行っていました。
特にコーディングシートを書く作業は、大変で 横80桁 縦25行が1ページのシートに数千、数万行のプログラムを書くという今では、苦行としかいえない作業を続けていました。
幸い、バロースのCANDE(キャンデ)というシステムは、エディター機能が、IBMや日立、富士通などと違って、かなり優れていました。
後にIBMの仕事をした時に
「なんて 原始的で遅れたシステムなんだ・・・」
とため息をついた記憶があります。
いまでは、プログラムを書いているそばから、シンタックスチェックや関数、クラスの候補まで かましてくれる 超絶楽ちんな環境(Visual Studio/Code、Android Studio、xcode 他)なのでiPhone、Androidのプログラムを簡単に作れると感じています。
だから 還暦を過ぎたIT小僧でも現役で仕事ができるわけですが・・・
分派
プログラムの腕を磨き、少しずつ大きな仕事を任されるようになり、一年が過ぎようとなったある日、会社の中で大きな変革が始まりました。
IT小僧は、システム開発部(記憶曖昧)に所属して 主に外で常駐して仕事をしていました。
そのグループが、F課長とA課長の2がそれぞれ要因を抱えて営業成績を競うということになりました。
IT小僧は、F課長の元で仕事をしてきたわけなので そちらのグループになると思っていましたが、
なんと A課長のグループに配属されました。
と同時にオンワード樫山に常駐していたI先輩と自分は、レナウンという同じくアパレルの企業に出向することになりました。
当時のレナウンは、衣料品メーカーとしてかなりの規模を誇っていました。
システムは、バロース B7900という、最新鋭のコンピュータが稼働していました。
仕事の場所は、越中島、新宿の2つを行き来することとなったのです。
レナウンの仕事は、オンワード樫山のときとは違い、システムのメンテが中心で新規になにかをつくるということはあまりなかった。
そして 最も助かったのは、レナウンの越中島倉庫では、残業食と言って申請しておくと夕食を出してくれるという、一人暮らしにはありがたい仕組みがありました。
こうして システム開発部(記憶曖昧)は、F課長とA課長という2つのグループに分派され 互いに競うあうことになったのです。
F課長からは、「もうしわけない こちらのグループに入ってほしかったのだげ・・・」と言われましたが、IT小僧は、気にもしていませんでした。
同期は、ほとんどがF課長の方になっていて A課長のもとには、自分と??(名前を失敬した)ぐらいでした。
このころになると COBOL②関しての仕事は、ほぼなんでも熟していて、困ることもありませんでした。
COBOLという言語と大型コンピューターというセットは、ある程度 習熟すると たいていなことは、できるようになるので新しい技術は必要なくなります。
これは、オンワード樫山時代に先輩方のプログラムを徹底的に読んで覚えていたという成果だと思っています。
数万行のプログラムのバグを見つける作業とかよくやらされていたことも大きな意味がありました。
少なくても自分はそうでした。
※多少 うぬぼれていたかも知れません。
こうして、またしても 同期から切り離される状況になってしましました。
次回予告
オンワード樫山からレナウン そして 同期と離れ離れでI先輩と2人きりの平穏な仕事が続く
そんなとき、外資系に一人で出向という新しい
次回 【プログラマー物語】 第5話 カミンズディーゼル
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【プログラマー物語】 第5話 カミンズディーゼル
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お楽しみに
連絡お待ちしています。
あのときのみなさまは、お元気でしょうか?
未だにIT小僧のようにコンピュータ業界で仕事をしている人いるのかな?
この物語で それって 自分だよ という人がいたら連絡下さい。
お待ちしています。