この物語は、IT小僧が
「駆け出しプログラマー」
だったころのお話です。
「不思議な出来事」
「変人奇人」
「コンピュータに関わる事件」
について、「少し創作があるかも知れない」ですが「ほぼ事実」という話をブログにまとめました。
前回のお話は、
キーボードすら触ったことのない「文系の大学生」が、当時最先端のコンピュータ企業に入社して「いきなり徹夜」という洗礼を受けたという話です。
今回は、その後の話です。
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目次
全商コンピュータサービス
自分の入社した「全商コンピュータサービス」という会社は、バロースというコンピュータ会社のB6700という大型コンピュータを導入
「東京工業品取引所」のシステムを担当していました。
また、当時の会社では、会社にコンピュータなどないところが多く、各会社の経理情報(主に給与明細の印刷)を行っていたり、各種帳票の印刷を行っていました。
さらにコンピューターにデータを打ち込む部門も持っていて、コンピュータ会社としてかなり恵まれていた環境でした。
親会社は、「カネツ商事」という商品先物取引業者で「その業界では、ビッグ3」という規模を誇っていました。
商品先物取引は、貴金属、農作物などの先物取引をするところで、1984年当時、金の取引では、世界のトップクラスだったそうです。
社会的には、強引な勧誘などで社会問題としてその後、大きな問題になる業界でした。
「豊田商事事件」というのもこの「商品先物取引」の業界です。
※あれは、商品先物というより、ただの詐欺事件でしたが・・・
株式会社 全商コンピュータサービスは、社内のB6700という大型コンピュータで商品先物取引、各企業の計算事務、データ入力、そして企業にエンジニアを派遣するという4つの事業展開をしていました。
IT小僧は、この会社でで「エンジニア派遣」部門に配属されることになったのです。
出向
前回の話で、入社する年の3月にアルバイトとして「オンワード樫山で徹夜」をしましたが、結局「オンワード樫山」に出向することになりました。
翌日から3人の先輩にかこまれて、社会人として一歩を踏み出したのですが、正直、何もできません。
先輩に言われて、帳票を打ち出して持ってきたり、テープにデータをコピーして持ってきたり、ジュースや昼食の関取係程度でした。
当時は、出向という形で月に何十万円という契約で企業に人を出していました。
派遣法などない時代です。
こんな、なんにもできない小僧にカネを払う企業も今から考えると凄いと思うけど、それだけ、コンピューターエンジニアという職業は、特殊な時代だったのです。
自分で覚えるしかない
前の章で
「先輩に言われて、帳票を打ち出して持ってきたり」「テープにデータをコピー」とさらりと書きましたが、これは、16℃のマシンルームでの作業が必要でした。
先輩は、最初の一度だけ やり方を教えてくれましたが、
「そんなの一度で覚えられるわけ ねぇじゃん」
その日から、コバンザメのように先輩の後を追いかけ回す日々が続いたのです。
「ここは、誰も教えてくれないんだ」
「生き残るには、自分でなんとかするしかない」
と決心したのです。
小さなメモ帳
マシンルームの端末は、当時「コンソール端末」と呼ばれていました。
小さなメモ帳を買って操作方法を見て
「どんな文字を入力すると何が起こるのか?」
メモに記録、後で意味を書き加えて整理する。
ときには、他の会社の人が作業しているのを盗み見てメモに書き写し、先輩が作業しているのと比べたりしました。
幸い、プログラムも書けないエンジニアは、先輩に命令されてジュースを買うぐらいしか仕事がないので時間は、たっぷりありました。
その時間を有効に使ってオペレーション、プログラムを入力する端末の使い方等をメモに残していったのです。
このメモは、このあと数年間、IT小僧の命とも呼べるメモとなり、そのメモを見れば、バローズ社のBシリーズという
「大型コンピュータを自由に扱えるバイブル」
となったのです。
土曜日は、プログラムのお勉強
1984年当時は、土曜日も仕事でした。
土曜日は、半日だけ いわるる「半ドン」というやつです。
「オンワード樫山に出向」していた4人は、土曜日は、「お当番」と呼ばれる2人を残して、半日だけ自社に戻っていました。
※「お当番」は、夕方まで仕事なので、残業代がもらえました。
もちろんIT小僧も同じです。
自社では、交通費の精算をするぐらいで特になにもないのですが、IT小僧は、上司である藤井氏にCOBOLのプログラムの研修をうけました。
まずは、フローチャート
テンプレート呼ばれる
「システムエンジニア御用達の定規」
でプログラムの流れを紙に書きます。
例えば、Aというデータを読み込み、項目の削除フラグというものが、1のものだけBというファイルに書き出す。
というものを図にして表すのです。
この作業によって「目的」の「手段」を明確にして「論理的なロジックにする」という作業を行うわけです。
フローチャートが、書ければ、プログラムは、ほぼ終了したと言っていいでしょう。
今は、ほとんど書くことは、ありません、当時はこのフローチャートが重要視されていて、プログラムを書く前には、必須の作業でした。
あとは、このフローチャートからCOBOLのプログラムを書いてゆくわけです。
もちろん、今のようにパソコンなどなく、大型コンピューターの端末も台数が数台しかありません。
プログラムは、コーディングシートと呼ばれる紙にプログラムを書くことではじまります。
横が128、縦が、25ぐらいの薄い緑色の線のマス目に英文字(大文字)を書いていきます。
手書きですから、COBOLの文法を知っていなければならないし、図形しかないフローチャートをCOBOLという言語にするなど、コンピューターの基礎知識など知らない自分には、意味不明な世界でした。
一通り、コーディングシートにプログラムを書いたものを自分でプログラムを入力します。
幸い、会社には、自社の大型コンピューターがあったので、「使っていい時間」を教えてもらい一人で入力をします。
当時、すでに外で仕事をしていたIT小僧は、本社のオペレーターの先輩にも知れ渡っていて、わからないところなどを教えてくれたりしました。
また、先輩方がコンピューターのマシンルームで作業しているのを見せてもらって「メモ帳」に追加したり、土曜日は、それはそれで有意義な時間でした。
特にオペレーターの荒木さんは、厳しい環境(客先)にいるIT小僧に対してやさしく接してくれました。いまでも深く感謝しています。
端末に向かって慣れない手付きでCOBOLのプログラムを打ち込とコンパイルという作業が待っています。
つまり、打ち込んだプログラムを正しいかどうか? コンピューターが判断するわけです。
判断したものが正しかったら、実行ファイルという実際にプログラムを動かす「もの」ができあがります。
しかし、初めてのプログラムは、散々でした。
たった100行のCOBOLのプログラムに200以上のエラーを出してしましました。
原因のほとんどが、打ち間違い
そりゃ、キーボードを見て数週間目の小僧には、華麗なキー入力など無理です。
自分の給与分ぐらい稼いでくれ
オンワード樫山で出向生活も3週目、少しは慣れてきたのですが、あいかわらず 先輩に命令される事以外は、暇です。
そんなとき、ある先輩から
「自分の給与分ぐらい稼いでくれ」
と言われました。
かなり厳しい言葉です。
いまだったら「パワハラもの」でしょう。
このときです。
「今に見返してやる」
まじでそう思った。
この日から、プログラムを打ち出した、ストックホームを持ち帰り、解読するという作業が始まったのです。
※今では、禁止されているので絶対にやめてくださいね。
数千行、数万行のストックホームを部屋で広げ、
文法を解析
意味を解析
何をしているのかを解析
見慣れない文法やプログラムの書き方があったら、会社で調べる。
街の本屋さんでCOBOLの本を探してもあまりない時代でした。
頼りは、ストックホームに書かれたいるプログラムだけ
このとき勉強したものは、今でも大きな役にたっています。
別にCOBOLがどうとかというのではなく、
「他人が書いたプログラムの解析」
という能力が身についたものと思います。
初めて見る環境やプログラム言語でもおおよそ何をしているのか見当がついたり、数万行のプログラムからバグを見つけ出すことができるのは、このときの訓練が役に立っていたものと思います。
やがて
はじめてつくった、100行で200のエラーを出したプログラムもエラーもなくなり、フローチャートどおりに動くことを確認
入社前の一ヶ月間は、激動の日々でした。
その厳しい時期を
「自分の給与分ぐらい稼いでくれ」
に対しての
「今に見返してやる」
同期
4月になりました。
IT小僧も新人なので入社式に出ました。
新入社員は、8名ぐらいいたでしょうか? 全員大学卒業組です。
ほぼ全員が、企業出向要員でした。
そのほとんどは、未経験者、知識もなければ、コンピューターなどみたこともないわけでスタートラインは同じ、唯一、IT小僧を除いてですが・・・
1980年代の企業は、新人研修は、スパルタ式で自衛隊に体験入隊させたりということが流行っていました。
自分たちは、そこまで厳しくはなかったのですが、研修旅行として箱根に出発しました。
IT小僧は、先輩方と離れて、おやすみ気分だったのですが、会社は、自分を新人扱いではなく、新人のサポート役として、先輩方のお手伝いをするように言われました。
研修のカリキュラムも教える側、夜の宴会も先輩方と飲むことが多く、朝のマラソンも免除です。
帰り際に同期の一人に言われました。
「なんでお前だけ特別待遇なんだよ」
「おもしろくねぇな」
と・・・
「ああ 自分は、同期として見てくれないんだ」
はっきりと自覚しました。
その時からです。
「この会社では、ひとりて生きていくんだ」
そう自覚しました。
毎日、プログラムの書かれたストックホームを解読しながら、「いつかトップに立ってやる」と思いつつロジックを追う日々が続きました。
新入社員として扱われなかったのは、寂しい気持ちが多かったですが、優越感もありました。
同期は、研修後に社内でプログラムの勉強をしていましたが、自分は、実践の場で仕事をしていました。
たまに会社の戻ってきても、先輩方といるときが多く、同期とはあまり話もしません。
同期からみると
「嫌なヤツ」
だったんだろうな
次回予告
次回は、新人たちの話を中心に進めます。
【プログラマー物語】 第3話 同期の噂 この物語は、IT小僧が「駆け出しプログラマー」だったころのお話です 連載 復活です。 この「プログラマー物語」 しばらく 休載しておりました。 理由は、ほとんど読まれなかったので 「こんな記事というか ... 続きを見る
【プログラマー物語】 第3話 同期の噂
ところで
あのときの彼らは、元気でしょうか?
IT小僧のようにコンピュータ業界で仕事をしている人はいるんでしょうか?
あとがき
1984年当時、多くオフィスには、エアコンは入っていませんでした。
窓全開で仕事をしていたものです。
出向先のオンワード樫山は、倉庫だったのですが、エアコンは、コンピュータルームだけでした。
そのことを知っているコンピュータ室の社員や出向社員は、用もないのにコンピュータルームで涼んでから仕事をしていた。
また、クールビズなどもなく、真夏でも背広にネクタイが当たりまえ
もっとも、同じ気温でも暑さの感覚は違っていたような気がします。
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