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IT小僧の部屋

BlackBerry物語 オバマの端末はなぜクルマ2.7億台の頭脳に生まれ変わったのか

かつて、世界の大統領や経営トップがポケットに忍ばせていた黒い端末があった。物理キーボードを備え、親指だけでメールを打てるその端末は「中毒になる果実」とまで呼ばれた。名前はBlackBerry(ブラックベリー)

iPhoneとAndroidの登場で、あの黒い端末は表舞台から姿を消した。しかし会社そのものは死んでいなかった。それどころか2026年のいま、世界中のクルマやロボットの「頭脳」として、そして国家レベルの機密通信を守る番人として、静かに復活を遂げている。

今回は、栄光、転落、そして再起。ひとつの企業がたどった30年以上の物語を、元金融系エンジニアの視点で語っていこう。

プロローグ 大統領が手放さなかった端末

2009年、アメリカ大統領に就任したバラク・オバマ氏は、就任にあたってひとつの「わがまま」を通した。セキュリティ上の理由から私物端末の使用を止められそうになった際、彼が手放すことを拒んだのが、あの黒い端末だった。

国家元首が使い続けることを許された携帯端末。それは当時、この端末の安全性がいかに別格だったかを示す象徴的なエピソードである。ウォール街の金融マンも、各国の官僚も、深夜までこの端末でメールを打ち続けた。あまりの依存ぶりに「CrackBerry(クラックベリー)」、つまり麻薬のような果実という不名誉なあだ名までついたほどだ。

第一章 カナダの学生が始めた小さな会社

物語は1984年、カナダのオンタリオ州ウォータールーから始まる。大学生だったマイク・ラザリディスが友人と設立した会社、それがResearch In Motion(リサーチ・イン・モーション、通称RIM)だった。

当初は無線データ通信の受託開発が中心の、どこにでもある技術ベンチャーである。転機は1990年代後半。双方向ページャー(ポケベルの進化形)の開発で無線メール技術を磨いたRIMは、1999年に「BlackBerry 850」を世に送り出す。小さなキーボードのボタンが果実の粒に見えたことから、ブラックベリー(クロイチゴ)の名が付けられた。

この端末が革命的だったのは「プッシュ型メール」だ。サーバーにメールが届いた瞬間、端末に自動で配信される。いまでは当たり前のこの体験を、モバイルで最初に完成させたのが彼らだった。

第二章 黒い果実、世界の頂点へ

2000年代、この黒い果実は企業市場を席巻する。理由は明快で、他社には真似できない仕組みを持っていたからだ。

他にはなかった独自の仕組み BES

企業内に設置するBES(BlackBerry Enterprise Server、ブラックベリー・エンタープライズ・サーバー)と端末の間で、メールが常に暗号化されたまま専用ネットワークを通って届く。しかも管理者は、紛失した端末を遠隔で初期化したり、利用ポリシーを細かく統制したりできた。端末、サーバー、ネットワークまでを一社で垂直統合した設計。これが金融機関や政府機関の要求水準に応えられた最大の理由である。

この構成は勘定系システムの思想に近い。「便利さ」より先に「統制」がある。誰が、どの端末で、何にアクセスできるかをすべてサーバー側で握る。監査対応が宿命の金融機関にとって、これほど都合のいいモバイル基盤はなかった。

絶頂期の数字はすさまじい。2009年頃には世界スマートフォン市場でシェア約2割、米国では一時ほぼ半分を握り、契約者数は2012年に約8,000万人へ達した。株価は2008年に最高値をつけ、時価総額は一時8兆円規模。カナダを代表する企業として、同国の株式市場の顔でもあった。

第三章 2007年、すべてを変えた発表

2007年1月、スティーブ・ジョブズが初代iPhoneを発表する。物理キーボードを捨て、全面をガラスの画面にした端末。当時のRIM経営陣の反応は、いまとなっては有名だ。「バッテリーがもたない」「企業はキーボードを求めている」「セキュリティで我々に勝てるはずがない」。

どれも、その時点では正しかった。そして、正しかったからこそ致命傷になった。

スマートフォンの主戦場は「会社が社員に持たせる端末」から「個人が欲しくて買う端末」へと移っていた。個人が選ぶ基準は統制ではなく、大画面で動くアプリと娯楽である。さらにBYOD(Bring Your Own Device、私物端末の業務利用)の波が企業に押し寄せ、「会社支給の黒い端末」という最後の砦まで侵食されていった。

Androidが低価格帯から新興国市場を飲み込むと、挟み撃ちは完成した。かつての王者に残された時間は、もうほとんどなかった。

第四章 転落、そして端末事業の終焉

反撃の一手はことごとく裏目に出た。2011年のタブレット端末「PlayBook(プレイブック)」は、メール機能が単体で使えないという迷走仕様で大量の在庫の山を築く。2013年、社運を賭けて投入した新OS「BlackBerry 10」は完成度こそ高かったものの、アプリが集まらず市場はすでに二強で固まっていた。

同じ2013年、会社は身売りを模索するも破談。ここで登場するのが再建請負人ジョン・チェンCEOである。彼の決断は明快だった。

「我々はハードウェアの会社をやめる」

2016年、自社での端末開発から撤退。端末はブランドライセンスとして他社に任せ、自らはソフトウェアとサービスの会社に生まれ変わる。そして2022年1月、旧来の独自OS向けサービスは完全に停止された。あの黒い端末の物語は、ここで正式に幕を閉じた。

普通の物語なら、ここで終わりだ。しかしこの会社には、どん底の最中にひっそりと蒔いていた「種」があった。

第五章 クルマの中で生き延びたOS

2010年、まだ端末が売れていた時代に、RIMは約2億ドルでひとつのOS会社を買収していた。それがQNX(キューエヌエックス)である。当初の目的はタブレットや次世代端末の基盤OSだった。つまり買収の動機だった事業は失敗した。ところが、買った資産そのものが宝だった。

QNXは1980年に生まれたリアルタイムOS(RTOS、決められた時間内に必ず処理を完了させることを保証するOS)で、その最大の特徴はマイクロカーネル設計にある。

マイクロカーネルとは何か

WindowsやLinuxのような一般的なOSは、多くの機能をカーネル(OSの中核部分)に詰め込んでいる。どこか一箇所の不具合が全体の停止につながりやすい構造だ。一方マイクロカーネル設計では、中核を極限まで小さくし、各機能を独立した部品として動かす。ひとつの部品が壊れても、その部品だけを再起動すればいい。時速100キロで走るクルマのブレーキ制御に「ブルースクリーン」は許されない。命を預かる機械にとって、この設計思想は決定的な価値を持つ。

これは勘定系で言う「障害の局所化」そのものだ。一部のサブシステムが落ちても決済の根幹は止めない。壊れる前提で、壊れ方を設計する。派手さはないが、ミッションクリティカルの世界で最後に信頼されるのは、こういう地味な思想である。

第六章 QNXという第二の人生

端末事業が沈んでいく裏側で、このOSは自動車業界に深く根を張っていった。そして2026年のいま、その搭載実績は世界で2億7,500万台以上。トヨタ、ホンダ、BMW、メルセデス・ベンツ、フォルクスワーゲン、ボルボといった主要メーカーや大手部品サプライヤーが採用する、車載基盤ソフトウェアの事実上の標準となっている。

活躍の場は、デジタルコックピット、先進運転支援システム(ADAS、エーダス)、車載インフォテインメント(IVI)など多岐にわたる。自動車向け機能安全規格の最高水準「ISO 26262 ASIL D」の認証を持ち、ソフトウェア定義型自動車(SDV、ソフトウェアの更新で機能が進化し続けるクルマ)の土台として、各社の次世代開発に食い込んでいる。

さらに近年の主役はクルマの外にある。2026年4月にはNVIDIA(エヌビディア)との提携拡大を発表し、ロボティクスや産業システム、いわゆるフィジカルAI(現実世界で身体を持って動くAI)の領域へ本格進出した。この発表で株価は一日で15パーセント跳ね上がっている。ボストン・ダイナミクスやアジリティ・ロボティクスといったロボット企業も顧客に名を連ね、いまや売上の約2割は自動車以外の分野が占める。医療機器、鉄道、発電所の制御。人の命に関わる機械の中で、この小さなOSは静かに動き続けている。

第七章 もうひとつの柱 国家の通信を守る仕事

再起の柱はもう一本ある。Secure Communications(セキュア・コミュニケーションズ)事業だ。端末は捨てても、創業以来磨き続けた「通信を守る技術」は捨てなかった。この事業は現在、三つの製品で構成されている。

製品名 役割
UEM(ユーイーエム) 組織内のスマホやPCなど、あらゆる端末を一元管理する統合エンドポイント管理。業務データを個人領域から暗号的に分離し、政府水準の統制を実現する。かつてのBESの思想の正統な後継といえる。
SecuSUITE(セキュスイート) 政府首脳や外交官、国防関係者向けの盗聴対策済み通話・メッセージ基盤。通信内容だけでなく、誰といつ話したかというメタデータまで保護する。国外の通信網の上でも安全な通話を成立させる。
AtHoc(アットホック) 災害や重大インシデント発生時に、政府機関や軍で人員の安否確認と指揮命令を回す危機管理プラットフォーム。米連邦政府のクラウド認証で最高位クラスの認可を初めて取得した危機管理システムである。

顧客リストが並外れている。NATO(北大西洋条約機構)、G20各国の政府、米国防総省、ドイツ連邦政府。2026年3月にはカナダ政府が複数年契約を更新・拡大し、連邦省庁での首脳・国防向け通話基盤の配備を大幅に広げると発表した。各国の情報機関水準の認証を積み上げたこの領域は、GAFAですら簡単には参入できない参入障壁の塊である。

一方で、失敗も語らねばフェアではない。2018年に約14億ドルで買収したAI型セキュリティ企業Cylance(サイランス)は競争激化で伸び悩み、2024年末に約1億6,000万ドルで売却された。買値の約9分の1。手痛い損切りだが、この撤退で財務は軽くなり、上記の政府向け事業とクルマ向け事業に経営資源を集中できた。損切りの速さもまた、再建の一部である。

第八章 「ターンアラウンドは完了した」

2026年4月に発表された2026年度通期決算で、この会社はGAAPベースの純利益5,320万ドルを計上し、ついに本格的な黒字転換を果たした。前年は7,900万ドルの赤字だった。ジョン・ジアマッテオCEOは決算でこう宣言している。「ターンアラウンド(事業再建)は完了した」。

2026年度の主な数字 内容
通期純利益(GAAP) 5,320万ドルの黒字(前年は赤字からの転換)
車載・組み込みOS事業の通期売上 約2億6,800万ドル。第4四半期は前年比20パーセント増と過去最高を更新
政府向け通信事業の通期売上 約2億5,000万ドル規模。政府需要を背景に会社は通期見通しを期中に3回引き上げ
株価 2026年に入り一時2倍超まで上昇

かつて8,000万人が握りしめた端末の会社は消えた。代わりに残ったのは、2億7,500万台のクルマの頭脳と、国家の機密を運ぶ通信網を支える会社である。売上規模こそ全盛期の数十分の一だが、利益の出る筋肉質な体に変わり、しかもSDVとフィジカルAIという、これから10年伸びる市場の入口に立っている。

年表で振り返る栄光と挫折

出来事
1984年 カナダでRIM設立
1999年 初代端末「850」発売。プッシュ型メールで企業市場を開拓
2007年 初代iPhone発表。運命の分岐点
2010年 後の再起の切り札となる組み込みOS会社を約2億ドルで買収
2012年 契約者数が約8,000万人でピークに到達
2013年 新OS投入も失速。身売り破談を経て再建CEOが就任
2016年 自社での端末開発から撤退。ソフトウェア企業へ転身
2022年 旧来の独自OS向けサービスを完全終了。端末時代に幕
2024年 不振のAIセキュリティ子会社を売却し、二本柱に集中
2026年 通期黒字転換。車載OSは2億7,500万台超、CEOが再建完了を宣言

IT小僧のひとこと

この物語の教訓は「時代の変化に乗り遅れるな」ではない、と私は思う。彼らは変化に気づいていたし、対抗製品も作った。それでも負けた。市場の重心が「統制」から「体験」へ移ったとき、過去の成功を支えた強みそのものが足かせになったのだ。

本当の教訓は別にある。端末という「形」は捨てても、信頼性と通信を守る技術という「核」は捨てなかったこと。そして、その核が本当に評価される市場、つまりクルマ、ロボット、国家の通信へと居場所を移したことだ。元金融系エンジニアの目には、これは不採算店舗を全部畳んでも勘定系の技術者だけは手放さなかった銀行のように映る。

華やかな表舞台から、誰も見ていない機械の内側へ。それでも、あなたが今日乗ったクルマのメーターの裏では、あの黒い果実の会社のOSが動いているかもしれない。敗者復活戦は、意外と地味な場所で完結するものである。

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